
真夜中の東京。先行機に続いて市街地の上空にさしかかると、眼下はすでにオレンジ色の炎に輝いていた。
約300機の大編隊。サーチライトに照らされた機体が、きらきらと光る。
米軍兵士のチェスター・マーシャル操縦士は、大型爆撃機B29の機上から見下ろした情景をこう書き残している。
〈たくさんのマッチを一度に擦ったように見え、何秒もしないうちに、その小さな炎の群れが集まって、単一の大きな火炎の塊となるのだった〉
上空を横切るB29 「もう死ぬんだ」 覚悟した13歳
そのころ、13歳だった亀谷敏子さん(93)は、深川区(現・江東区)の自宅で眠りについていた。
空襲警報が鳴ったのは、3月10日午前0時15分。その7分前から焼夷(しょうい)弾の投下が始まっていた。
父親にたたき起こされた。「この馬鹿、起きろ。表はもう火の海だ」
裏手にも瞬く間に炎が迫った。父と近くの鉄筋コンクリートのビルに逃げ込んだが、炎がガラス戸を溶かし、室内に襲いかかる。
強引に外に飛び出した途端、強烈な旋風で体を吹き飛ばされた。
道路にはいつくばる。もんぺの裾に火がつく。「もう死ぬんだ」。その時、父に手をひかれ、近くの工場の塀の中に投げ込まれた。
空を横切るB29が見えた。
◇
1945年3月10日の東京大空襲は、米軍にとって、視界の良い昼間に軍事基地や軍需工場などを狙う爆撃から、民間人が住む市街地そのものを標的にする無差別爆撃に本格転換した最初の対日作戦だった。
【特集】無差別空襲 米軍の空撮が記録した都市破壊
終戦間近の空襲の前後、アメリカ軍が空から撮影した高精度の写真を、日本の空襲研究者が入手しました。そこに映っていた街の姿から、空襲のねらいを読み解きます。
下町を取り囲むように4地点の目標を設定し、2時間にわたり約1700トンの焼夷弾を落とした。木造家屋がびっしり連なる人口密集地はたちまち猛火に包まれ、強烈な上昇気流でB29の機体が1500メートル以上も持ち上がったという。
頭や手足のない何百体もの遺体
夜が明けると、亀谷さんは…